出身地:大阪府
現在の年齢:46歳
患者さんの年齢:患者(本人)42歳
病名:浸潤性乳がん
Contents
闘病記
▶︎闘病名、年齢、家族構成や状況
私は、42歳の時に左胸に浸潤性の乳がんが見つかりました。主人と二人だけで子供がおらず、共働きでした。
▶︎病気が判明した経緯と心境 または病気を告げられた時の経緯と心境
入社してから会社の健康診断は毎年受診しており、特段異常はありませんでした。しかし、2015年、41歳の時に受けた健康診断で、乳房のエコー検査で「要再検査」の結果がでました。しかし、今まで異常がなかったことと仕事が忙しかったことから、再検査を受けていませんでした。タレントの北斗晶さんが、乳がんであることを告白されたニュースをテレビで見た時、自身にも要検査の通知が来ていたことを思い出しました。「まさかね」と思いつつ、2016年2月に近くの総合病院で受診しました。「要再検査」の通知から1年も経っていました。
エコーをかけている先生の手がとまり、看護婦さんが慌ただしく動きはじめました。「少し、組織を取って、精密検査に出しますね」との先生の説明に心臓が早くなりました。組織検査とCT検査の結果、「多発性の浸潤性乳がんが見つかりました」と言われました。さらに、左胸のCTは、いたるところが真っ白で、素人が見ても左右の違いが明らかでした。色々と説明を受けたと思うのですが、正直、記憶に残っていません。「あなたの場合は、左乳房を残すより全摘をした方が生存率は高くなります」「できるだけ早く手術しましょう」そのような感じの説明だったかと思います。左胸がなくなることへのショック。生存率と言う聞きなれない単語。主人にどうやって話そうか、仕事はどうしよう。。。色々と頭の中をぐるぐる回りました。家に帰って主人に説明をした時、なぜか涙は出ませんでした。あまりにも非日常的な内容に、まだ自分の事だと受け止められていなかったのだと思います。翌日、会社を休みました。上司にお休みの連絡をし、簡単に現在の状況を説明しました。電話を切った後、「自分は来年もここにいるのだろうか」と思った時、急に怖くなって堰を切ったように涙が溢れ、一人で大声を出して泣きました。その時、携帯が鳴りました。上司が心配してもう一度連絡をしてきてくれたのです。泣きながら電話に出たので、異常を感じ取った上司が「大丈夫、大丈夫だから」と、何度も何度も繰り返し言ってくれたことを覚えています。
先生から「できるだけ早く手術しましょう」と言われましたが、病院側での手術のスケジュールが取れず、5月下旬に決まりました。「乳がんは比較的進行が遅いですから、2ヶ月くらいでは急変しないですよ」と言われたものの、気が気ではありませんでした。
手術日当日、主人と母が付き添ってくれました。手術時間は4時間ほど。左胸と左脇の下のリンパ節を取り除きました。麻酔が切れ、目が覚めると胸は包帯でぐるぐる巻きになっていました。主人も母も泣いていました。手術から5日後、先生からリンパ節に転移がんが見つかったと告げられました。転移が見つかったため、抗がん剤治療が必要とのこと。先生からは副作用のことも説明がありました。毛が抜けることも。まだ許してもらえないのかと、また目の前が真っ暗になりました。
▶︎お金・保険に関すること
主人と二人、共働きでしたので、手術代や生活に関してはあまり心配はありませんでした。ちょうど1年前に加入した女性特有疾患への保険料と、会社の健康保険から高額医療への付加金が支払われたので、入院費と治療費はかなりサポートしていただきました。
仕事も、有給休暇を使い果たしましたが、私の体調を理解してくれている上司(女性)のおかけで続けていくことができました。
▶︎治療と心境
転移が見つかった私の場合、TC療法(ドセタキセルとシクロホスファミド)として、6月から3週間ごとに4回、静脈から点滴投与します。投与して3日後、吐き気と高熱が出て2日間は動けなくなります。音に敏感になるようで、日ごろは気にならない遠くの子供の叫び声や笑い声が耳に響いてイライラします。食べ物の臭いも気持ち悪く、ビータインゼリーやフルーツを食べて、2日間が過ぎるのをじっと耐えます。2回目の点滴投与の後、髪が抜け始めました。風呂場で髪を洗うと、バサバサと束になって抜けていきます。物凄い髪の量に血の気が引きました。最終的に髪の毛はすべて抜け落ちてしまいました。
病院の先生からは、事前に髪が抜けることを説明されていたので、入院前にカツラを準備していました。健康な時の自分の髪型とよく似たスタイルの医療用ウィッグで、おそらく気づいている人はあまりいなかったと思います。
TC療法が終わったら、次はハーセプチン療法(トラスツズマブ)です。こちらも3週間ごと投与が1年間続きます。右腕は注射針の跡がいっぱい出来ていました。こちらの薬は副作用が少なく、仕事をしながら治療を続けることができました。
ハーセプチン療法がようやく終わったら、今度は女性ホルモンの作用を抑える薬(ノルバデックス)を毎日服用し、3年間続けます。
▶︎予後
2019年、手術から3年が経過し、お薬の服用も2年目を迎えました。やっと、左胸の無い自分に慣れてきました。周りに気を遣いますが、温泉に入ることに抵抗もなくなってきました。抜けた髪もショートカットまでのびました。がん細胞がすべて消滅したとは思いません。どこに潜んでいるかもしれません。
でも、私はまだ生きています。これからも、他のみんなと同じように旅行にも行けますし、笑えます。美味しいものを食べることができます。最近は、スポーツジムにも通い始めました。体力をつけて、もっともっと楽しいことをしたいと思っています。
▶︎同じ境遇の方にアドバイス
幸いにも、私は信頼できる上司がいて、その方が本当に色々と手を差し伸べてくれました。同じくらいの年代で、女性同士だからこその心遣いを沢山いただきました。仕事面でも負担がかからないようにサポートしてくださいました。一緒に泣いてくれて、励ましてくれて、後ろ向きな事を言った時には叱ってくれました。
一人きりで悩まず、信頼できるお友達や先輩に打ち明け、苦しい胸の内を誰かに聞いてもらうのはどうでしょうか。闘病中は、自分にだけに不幸が次から次へと襲ってくると思い、全ての人が恨めしく、話しをするのも煩わしい腹立たしい気持ちでいっぱいでした。
病気が見つかった時、きっとみんな同じ気持ちになります。一人だけじゃないです。身体の中にもやもやした黒い気持ちは吐き出したほうが楽になります。吐き出したら、大きく息を吸って前を見ることができます。まだまだ私も戦いの途中です。同じような人がまだ頑張っています。一緒に頑張りましょう。
うれしかったお見舞い品と、その理由
上司からもらった、たくさんの映画のDVDです。手術後は、家を出るのも嫌でずっと家に引きこもっていました。朝から晩まで見ていました。
病院食のおかずとして用意してよかったもの
ビターインゼリー、鍋焼きうどんやグラタンなどの冷凍食品。
食事の用意をするのも体がつらく、冷凍食品を大量に買い込んでいました。
薬の副作用のせいか食欲がなかったので、携帯食は常にストックしていました。
暇つぶしとしてやっていたことと、その感想
一日中、朝から晩までDVDの映画を見ていました。
その当時は感情の起伏が激しく、テレビのワイドショーを見てると、ちょっとしたことでイライラとしてしまっていたので、ハッピーエンドの映画をよく見ていました。
役にたった便利グッズと、その理由
電子レンジで温められ、冷蔵庫に入れて冷やすことのできるジェルパックです。昔、リフレクソロジーのお店で購入したと思います。熱が出た時は、氷のうとしてつかい、抗がん剤治療のあとは身体が冷えるので、電子レンジで温めてカイロ代わりにしていました。
今1番楽しみにしていること、生きていてよかったと思えるようなこと
家族と旅行にいったり、上司と美味しいものを食べ行って、沢山笑って、もっともっと楽しいことをしたいと思います。あの時、病院に行かず、精密検査を受けていなければきっとガンは見つかっていなかったと思います。自分の人生はもっと早くに終わっていたかもしれません。でも、苦しみの中で、家族や友人のやさしさを身にしみて感じ、自分もみんなを大切にしなければと思いました。私はまだ生きています。生きている間は、もっともっと色々んなことを楽しみたいと思っています。
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