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何も知らなかったからこそ救われた(血小板減少性紫斑病)

プロフィール
お名前:goshi
出身地:石川県
現在の年齢:20歳
患者さんの年齢:本人・7歳
病名:血小板減少性紫斑病

闘病記

▶︎闘病名、年齢、家族構成や状況
私は7歳の冬。当時小学一年生の時に血小板減少性紫斑病にかかりました。母、父、2つ下の妹、祖父、祖母との6人暮らしでした。

▶︎病気が判明した経緯と心境 または病気を告げられた時の経緯と心境
小さい頃からそこまで活発な子では無かったのですが7歳の秋頃から体に痣が目立つようになりました。最初は足に500円玉くらいの大きさの痣ができていたのです。一見普通の痣でしたがぶつけた記憶もなく不思議でした。しかし、それから鼻血がよく出るようになったのです。学校に行くと鼻血が出て保健室に行き、給食の時間まで止まらないことも多々ありました。母親も流石に不審に思い耳鼻科に連れて行きましたが特に異常はなく、乾燥しているからでは無いか、とのことでした。しかしその後も鼻血が長時間出る日々は続き、体の痣もぶつけた記憶がないのにたくさんできるようになりました。母が私の異変に気付いたのはその頃です。私の足は8割が痣で埋まるほどになっていました。しかも痣の1つ1つが大きいのです。妹が風邪をひいたので小児科に行くついでに私を診てもらおうと母は私を病院に連れて行きました。小児科医は妹に風邪薬を処方した後、私の痣を見てすかさず「総合病院に行きなさい。紹介状は書きます」と言いました。ここで事の重大さを改めて知りました。当時の私は何もわからず、「大きい病院に行ってもっと詳しく見てもらうんだよ」としか言われませんでした。そのあと、市で1番大きい総合病院の小児科にかかり血小板減少性紫斑病と診断されました。正直その時は自分が大病にかかっているとはおもわず、ただ病院に通わなければいけないのか、お友達と遊ぶ時間が減るな、くらいにしか思いませんでした。

▶︎お金・保健に関する事
正直当時は小学一年生だったので何もわかりませんが、血小板減少性紫斑病は難病認定されているため医療費が一部免除になった気がします。また、薬も無料でした。入院している時は、母が私のために個室にしてくれたので多少の金額はかかったと思います。

▶︎仕事に関する事
母は印刷会社で働いていて、私が病気になる前はあさ8:00〜16:00まで働いていましたが、病気になり入院してからは私の元に早く来てくれて15:00ごろには病院に来てくれていました。また、父もいつもは帰りが22:00付近になるのですが週に2度ほど18:00ごろに病室に来て一緒にご飯を食べたりテレビを見ていました。きっと私のために早く仕事を切り上げてきてくれたのだと思います。

▶︎治療と心境
一番はじめに綜合病院で診察を受けて際は私の血小板の数値は一般の人が大体20万あるのに対して10万しかありませんでした。母が驚いて涙を流していたのを覚えています。医者からの勧めで初めは薬[プレドニン]を飲む生活でした。1日2錠飲んで毎週病院に通い、採血をしていました。しかし、あまり数値が良くならず、私の体調によっても変動するようで通院して1ヶ月ほどで私の血小板は5万を下回るほど少なくなってしまいました。そして、入院しました。入院の際は医師により万が一の可能性を考えて白血病か否かの検査のための注射を打ちました。腰骨に注射を打たれて号泣したのを覚えてます。今までのどの注射よりも痛かったです。結果、白血病ではなかったので、点滴を打ち、そこから薬[プレドニン]を投与する生活になりました。薬の副作用で満腹感が得られなくなったため暴飲暴食になりかなり太ってしまいました。ですが当時は小学生のため太っているなど気にしなかったのが幸いでした。入院食は味が薄く子供の私にとってはかなりキツかったです。いつも親が持ってくるお菓子ばかり食べていました。食事制限がなかったのもありがたかったですね。入院中も毎日採血をして、数値報告、薬の量調節、を繰り返していました。

▶︎予後
入院して2ヶ月ほどで薬の量を減らしても数値が安定してきたので退院しました。そのあとは順調で薬を飲まなくても良くなりました。先生の話では、成長とともに治る事例も多く見られるからそれに当てはまったのでは、とのことです。しかし、通院は1ヶ月に一度でしたが中学二年生まで続きました。小学校高学年の頃にはぶつけた記憶のない痣、止まらない鼻血などはなくなっていましたがやはり数値が一般の人に比べると少ないみたいです。今でも一般の人より少し少ないですが、元気に生活できていますし、痣もありません。今では完治しています。

▶︎同じ境遇の方にアドバイス
病気にかかった事で出来ないことが増えるのは本当に辛いと思います。友達と外で遊べず病室の中で1人の日々は本当に孤独でした。しかし、その中でも私はいつか友達と外で元気いっぱいに遊べるようになるんだ、という気持ちを忘れずに頑張ったからこそ病気は治ったのだと思います。自分の病気に負けず打ち勝って欲しいです。

うれしかったお見舞い品と、その理由

クリスマスの時期も入院していたので、担任の先生がクリスマスプレゼントだよ、と行ってミッケをくれたのが一番嬉しかったです。病室は1人で孤独だったので時間を使い、飽きないミッケは私の相棒になりました。

病院食のおかずとして用意してよかったもの

特にありませんでした。でも食事制限はなかったので食後にお菓子ばかり食べていました。

暇つぶしとしてやっていたことと、その感想

ミッケ(本)はもちろん勉強ばかりしていました。学校に通えないため、皆んなに遅れをとるかもしれないと心配した両親が計算ドリルや漢字ドリルをたくさん買ってくれて病室ではほとんど勉強していました。お陰で小学校一年生にして九九を覚えました。

役にたった便利グッズと、その理由

加湿器は本当に役に立ちました。冬場なので乾燥するのはしょうがないのですが、乾燥すると血管が切れやすく鼻血が出やすくなるので加湿器を置いてもいいか確認し許可を頂いて病室においていました。心なしか鼻血の出る頻度が減ったように感じます。

今1番楽しみにしていること、生きていてよかったと思えるようなこと

当時の私は友達と外で遊びたくても痣を作るかもしれないから家の中で遊びなさい、と言われ小学校高学年まではほとんど外で遊べませんでした。中学生になってほとんど完治してからはテニス部に入り目一杯体を動かし、汗をかいた時に生きてるとはこういうことなのだ、体を動かし汗をかくのはこんなに気持ちいいことなのか、と感じました。病室で寝てばかりで汗なんて夏の暑さくらいでしかかかない私が自分から体を動かして汗をかいたことに一種の感動を覚えました。汗をかくとは生きていることを実感させられる素晴らしい瞬間です。

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