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失いかけた未来(頚椎損傷)

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プロフィール
お名前:ブルーツリー
出身地:千葉県
現在の年齢:44歳
患者さんの年齢:本人・21歳
病名:頚椎損傷

闘病記

▶︎闘病名、年齢、家族構成や状況
私は22歳の時、スポーツ中の事故で頚椎損傷になりました。当時は大学4年生で都内に一人暮らし。
実家には両親と高校生の弟と中学生の妹がいました。

▶︎病気が判明した経緯と心境 または病気を告げられた時の経緯と心境
私は、大学からアメリカンフットボールを始めました。3年間、ずっと補欠で過ごしてきました。4年生になり、やっとレギュラーになり、ディフェンスキャプテンも務めるようになりました。また、大手機器メーカーにも内定が出ており、その年の4月からは念願の彼女も出来ていました。
その当時、部は2部リーグ優勝も目指したリーグ戦で全勝中。入れ替え戦も視野に入って、練習にも熱が入っている時期でした。そんな練習の最中に事故は起こりました。ボールを持った相手にタックルをした際に、後ろから押され普段では行わない頭を下にしたまま突っ込んでしまいました。その瞬間、身体中に電気が走りました。
そして、グラウンドに横になったまま動けなくなってしまいました。意識を失う事もなく、言葉を話せたのですが、首から下はまったく動きません。しばらく様子を見ていましたが、その後は全身の感覚が敏感になり痛みに変わっていきました。それから救急車で近くの救急病院に運ばれて、着ていたユニフォームをはさみできられ、尿道にカテーテルを入れられました。首から上が元気な私は、そこにいた医師に尋ねました。「2週間後に大事な試合があります。そこに間に合いますか?」
先生は楽観的な私の質問に軽い溜息をつきながら「試合どころか、この先車いすでの生活をする可能性が高いです」と言いました。診断名は「頚椎損傷」。頚椎の2番の損傷。そこから下の神経が圧迫を受けて麻痺してしまっており、断裂ではないので戻る可能性はあるが、どこまで戻るかわからないし、歩けるようになれる保証はないと。目の前が真っ暗になりました。実家から駆けつけてくれた家族は気丈に振舞い、とても強く支えてくれました。でも、心配で心配でたまらなかったと思います。
自分で生活すること、内定をもらっている就職もあきらめるしかない。結婚そして子供を作る事もできない。自分が考えていた自分の未来、将来像をすべて失ってしまった感覚でした。

▶︎お金・保険に関すること
お金は自身の生命保険や大学の保険などがあり、そこでほとんど賄うことができました。

▶︎仕事に関すること
真っ先に考えたのは、内定を出してもらっている会社の事でした。何社も何社も面接を受け、やっとの事でいただいた内定でしたが、自分では何もできない、動かす事ができない自分では、就職は断念せざるを得ないなと思いました。内定先の担当の方にもそのことを伝え、ひとまず待っていただく事になりました。結果的に翌年の4月の入社式に間に合う事が出来ました。

▶︎治療と心境
その日から首にフィラデルフィア装具という頚椎カラーをしました。しばらくはずっとベッドからは出れず、安静を余儀なくされました。手も足も動かない。お見舞いに来てくれた友だちが私の足を触っても、何にも感じない。トイレにも行けない状態が続きました。絶望の日々だけが過ぎていきました。
何にも出来ない日々から約2週間後、指先に若干の感覚が戻ってきました。頚椎は動かさず安静を保ちつつのリハビリが始まりました。とても辛いリハビリ生活でした。自分の手足を動かすのが、こんなにも大変なものなのか。理学療法士と作業療法士の先生とともに懸命にリハビリに励みました。日々のリハビリをしていく中で少しづつ自分で出来ることが増えてきました。

▶︎予後
約3か月の入院生活・リハビリの甲斐もあり、身体中が力が入らずふらふらしたり、手足の先端に感覚障害が残りはしたものの、自分の足で歩いて退院する事が出来ました。それからは通院でのリハビリが続きましたが、再び自分の将来の人生が見えてきました。
その後、内定を頂いた会社にも無事に就職が出来ました。3年間、勤めましたが、思うところがあり退職。その後、昼間は仕事、夜は学校に4年間通い、理学療法士の国家試験に合格。現在は埼玉県内の某総合病院で理学療法士として自分と同じような障害をもった患者様に寄り添ったリハビリを行うようになっています。
そして、諦めていた結婚も出来、現在2人の娘に恵まれています。
現在では手足のしびれ、感覚障害もほとんど失くなりました。

▶︎同じ境遇の方にアドバイス
決してあきらめない事。この一言に尽きます。医師や看護師、リハビリの担当者、家族など周りの方々が支えてくれると思います。でも、病気と立ち向かえるのはどこまで行っても自分だけです。治療をするのは医療者ではありますが、その医療者に最高の医療を提供させるのは自分なんだと強く強く思って、病気と闘ってください。
そして、リハビリ中の方はリハビリをしている時間以外の時も自分でリハビリをしてください。その量に比例して自分の身体を取り戻す事が出来ると信じて頑張ってください。

うれしかったお見舞い品と、その理由

ウォークマン。当初は身体が動かなかったので、音楽やラジオを聴くしかなかったのでとても役立ちました。身体が動き出してからは、ビデオとゲーム、本など暇つぶしになりました。特に本に触れることは今までなかったのですが、この機会に本を読んで色々な事を考えられるようになりました。

病院食のおかずとして用意してよかったもの

病院食は味が薄いので、ご飯用の海苔などは欠かせない物になりました。

暇つぶしとしてやっていたことと、その感想

小説とシリーズもののビデオ。スマホもない時代だったので、リハビリ以外はこの二つでほとんどの時間を過ごしました。

役にたった便利グッズと、その理由

水のいらないシャンプー。入院してしばらくはシャワーも入れない状態だったので、ベッド上で出来るシャンプーは本当に助かりました。

今1番楽しみにしていること、生きていてよかったと思えるようなこと

今一番の楽しみは、娘達の成長です。結婚して、子どもが出来る。当たり前のような事があの時の自分には当たり前じゃなかった。だから、今自分のそばにいる家族に感謝して、子供とかけがえのない時間を過ごしています。私はあの事故があったから今の自分が理学療法士という天職に巡り合えたと思っています。
そして、患者様の辛い心境を少しでも共有する事が出来ている、役立つことが出来ていると感じる時、生きていて良かった、あきらめなくて良かったと思います。

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