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2つのガンからの生還(大腸がん・乳がん)

プロフィール
お名前:オンマ
出身地:神奈川県
現在の年齢:59歳
患者さんの年齢:本人・患者本人私、50歳の時
病名:大腸ガンと乳がんのダブルがん

闘病記

▶︎闘病名、年齢、家族構成や状況
私が50歳のとき、大腸がんと乳がんのダブルのがんが発覚しました。
この時、3人の子供たちは、全員学生でした。
長女は大学2年生、長男は私立の高校生、末っ子の次男はまだ中学生で、夫はリストラから無職になっており在宅でした。
幸い、夫の両親と同居していて、自宅があったため、ローンや家賃が無い事がラッキーではありました。

▶︎病気が判明した経緯と心境 または病気を告げられた時の経緯と心境
半年くらい前から血便が出ることがあって、痔かな?とは思っていたのですが、夫が無職で経済的な不安も抱えていたので、病院の高額な検査を遠慮していました。
けれど、全然治らずに、だんだん酷くなっていき、食事をするたび腹痛を感じるようになった時に、娘に「お母さん病院行きなよ」と言われたのがきっかけで
受診することにしました。
血液検査では異常がみつからなかったので、ほっとしたのですが、内視鏡検査をすることになりました。
が、痛みで、検査を続行することができず、その時にみせられた画像で、もうこれは普通では無いということが、自分でもわかりました。
生検に出してないけれど、これはガンで、初期ではありません、また、どこまで転移しているか調べないと完治できるかはわからない、とこの時に言われ、頭の中が真っ白になりました。

▶︎お金・保険に関すること
夫はもう何年も無職でしたし、私のパート代だけでは食費がやっとの状況だったので、さて入院、手術と言われても、治療費が出せるのか?が最初は不安ではありました。
けれど、夢なら覚めてほしいと願っても、ガンで即刻検査入院、手術をしないといけないことは事実でした。
それで、もうなってしまったものはしょうがない。
カードで払えるものは払いましょう、お金はなんとかかき集めましょうと、覚悟を決めました。

入院する時、たくさんの書類をもらいましたが、その中に高額医療費の申請の紙をみつけ、それで、すぐ市役所に申請を出したので、助かりました。
それに、ほとんど保険は辞めていたのに、一つだけ、親戚の付き合いで入っていた共済が、ガンだと倍出るもので、結局支払い分より余計に戻ってきました。

▶︎仕事に関すること
当時、パートの他にもアルバイトもしていて、毎日大忙しにしていました。
入院、手術となると、2ヶ月ぶんの予定を全部キャンセルすることが大変でした。
けれど、2ヶ月全部休むことにした時に、ちょっとホッとしたことも覚えています。
自分で何でもしょいこんでいて、ストレスだと当時は感じていなかったけれど、自分に無理をしていたのだ、と気づきました。
ありがたいことに、パート先は病気休業にしてくれて、手術後もずっと待っていてくれました。

▶︎治療と心境
私の場合は、とにかく大腸がんが大きくなっていたため、即刻手術だけれど、どこまで転移しているか検査入院をしてからの手術になると言われて
すぐに検査入院をしました。
そして、一週間後に手術、という時に、執刀医が乳がんを発見してくれました。
どうせ、全身麻酔をするのだから一緒に手術したら?と言われて、その当日の帰りにマンモグラフィ、翌日0番に検査、というスピード検査で、同時手術をしてもらうことになったこともラッキーなことでした。
完治できるかわからないガン!というショッキングな診断なおかげで、自分が死ぬかもしれないと自覚しましたが、でも、それで、夫のありがたさがわかりました。
無職で引きこもりの夫でしたが、自分が死ぬかも?という時に、頼れる人は夫しかいませんでしたから。
それと、生きるか死ぬかは、本当は誰もが一緒の条件だ、ということにも気づきました。
ただ、ガンが発覚しただけの事。
どんなに元気な人でも、明日死ぬかもしれず、どんなに末期ガンでも生きている人はいて、これは寿命なのだから、それを受け入れるしかないのだ、ということに気づきました。
でも、そこに気づいたら、とても楽になりました。

▶︎予後
「受け入れる」気持ちになると、不思議なことに、とても穏やかに手術を迎えることができました。
おかげさまで、2つのガンの手術はしましたが、その後、まったく痛みも無く、乳がんは脇のリンパも取りましたが、腕がむくんだりすることもまったくありませんでした。
乳がんは、術後の抗がん剤と放射線がセットだと言われたのですが、術前に、それはやりたくないと言って、どうしてもやらないとだめか?と医師に聞いたら
やった方が5年生存率が高いけど、2年ごとに世界のガイドラインが変わるからね、と教えてくれました。
それで、2年で変わる可能性もあるのだったら、嫌だと思うことはしたくないので、抗がん剤も放射線もやらない方針でお願いしました。
なので、手術だけでその後は1粒の薬も飲まずに、9年が経ちました。

▶︎同じ境遇の方にアドバイス
医師は、責任問題もありますから、マニュアルに沿ったことを言われるし、最悪なことも言われると思います。
ただ、そのままを鵜呑みにしていたらその通りになってしまいます。
自分でなぜ?と思うことや、嫌だと思うことは、ちゃんと質問してみることは大事だと思います。
ちゃんと聞けばわかるまで教えてくれますし、自分の体のこと、命のことを、言われるがままに、というのはちょっと違うと思います。

うれしかったお見舞い品と、その理由

私の入院中、家族のために、おかずを沢山作って持ってきてくれた友人がいました。
これが一番嬉しく、感動しました。
毎日、夫が見舞いに来てくれていましたがこの時は、温かいおかずを持って帰ってもらえました。

病院食のおかずとして用意してよかったもの

病院の食事は、術後は完全重湯からでしたが、何日も絶食したりしましたので、何でも美味しくいただけました。
なので、時におかずを用意することもありませんでした。

暇つぶしとしてやっていたことと、その感想

当時、韓国ドラマに超ハマっていたので、携帯のゲーム機でそのドラマが見れるように、夫が変換して入れてくれたのです。
これが嬉しく、楽しかったです。
友達も、新大久保で、チャン・グンソクのグッズなども買って持ってきてくれたし、娘が携帯でブログの情報を送ってくれたりして、ありがたかったです。

役にたった便利グッズと、その理由

息子の持っていたゲーム機にデータを変換して入れてくれたので、DVDプレイヤーが無くてもドラマを見れたのが一番の便利でした。
今なら携帯でユーチューブも見れるので、当時なればこそ、ですが。

今1番楽しみにしていること、生きていてよかったと思えるようなこと

ガン手術のおかげで、人生観が変わりました。
がまんしたまま死んだら嫌だと思えたので、行きたかった韓国にも行きました。
今は、親の介護と、孫の子守りがありますが、何があっても、きっと良くなる途中経過だと思えるし、「受け入れること」が大事だとわかりました。
「受け入れ」たら、次にすすめることもわかりました。
特に女性は、勝手に我慢して勝手に無理だと諦めていることが多いと思います。
そのことにも、自分が死ぬかも?と思ったおかげで気づけました。
なので、介護や子守りがあっても、やれる時にやりたい事はするし、行きたい時には行くようになり、とても生きるのが楽になりました。

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