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胃ガンの末期を迎えるにあたって

闘病記

父は51歳で私は一人娘で母は私が小学生の時離婚しています。
父は自営業で左官をしており体力自慢の人でした。そんな父が私の自慢であり、健康で長生きするものだと思って私は県外に就職で出て父とは電話や一年に一回は会う関係でした。
そんな父から9月の涼しくなってきたある日電話が。私の実家は離島のためそこには大きい病院が1つしかなく設備も揃っていないので私が住む県外に大きい病院があるからそこで胃潰瘍の検査をすると。だから船でそっちに行くから迎えに来てほしいと言われました。胃潰瘍なら心配ないかもと何年かぶりに会う父を楽しみに汽船場に迎えに行きました。
父を見ると私は愕然と来ました。以前は日に焼けてガッチリとした体型でしゃきしゃき歩いていた父が半分くらいに細くなりよろよろしながら歩いてきたのです。
私はそれを見て以前祖父を肺がんで亡くした時のような細さだったのです。
でも私が泣いたりすると怒るのでそこは我慢し、なにかうどんのようなものが食べたいというので好きなもの食べていいよ食べて元気にならなきゃと美味しいうどん屋につれていきました。そこでまた私を愕然とさせる事が…
あんなに熱いものも平気で早食いだった父がうどんを半分も食べれないという真実。私はそれを見て確信しました。父はもう長くないと。
次の日私が住む医大に連れていき紹介状を持っていたのでスムーズに胃潰瘍の検査をすることができました。
すると父は落ち込むのを隠しきれずお医者様から私にも話があると呼ばれて行きました。
やはり父は胃潰瘍ではなく胃ガンだと言うことだと。そして長くて3ヶ月の命だと宣告されました。
そしてお医者様は私だけに話をしてくれました。

父の胃ガンはすでに全身に転移しており手の施しようがないこと、少しのガンなら取り除けないのかと聞いたら開腹しても父の場合開腹したら余命が短くなってしまうと言われまるで目の前が崩れ去る位途方にくれました。
それから父は即入院することになり、たまってくる腹水を取り除き死を待つだけでした。最初の頃はまだ元気で私を怒ったり車イスに乗せて院内を回ったりしていましたがみるみる体重が落ちベッドから起き上がることが出来なくなり…。
でも話をすることはできたのでそれだけは救いだったのですが父は自分の死期を悟り、死ぬなら実家の離島で死にたいと言い出しました。
そんな父の願いを叶えるため父を車イスに乗せ船で離島に帰るため船会社にお願いをし無理を言って離島に連れて帰ることができました。
離島に帰ったのは余命宣告をされて二ヶ月がたった頃、父の姉や親族が毎日のように見舞いに来てくれて父は少しですが元気が戻り笑顔も見れるようになりました。

田舎に帰りまだ死にたくないと病院食をしっかりと食べ、父の姉達が持ってくる父の大好きな料理を残さず食べてました。
父は生命保険に入ってあるから心配はいらないと言ってましたのでそれを信じ父の姉私からするとおばと協力して面倒を見ていました。無事に年末年始を迎えれた父は嬉しそうにおばが持ってきたお餅を大好きなぜんざいにしたのを食べたりぼたもちにしたのを食べたりと
このまま奇跡が起きればいいのにと思ったのもつかの間正月が終わると同時に父はみるみると弱り心音もゆっくりになり寝るだけの日々に。時折寝ながら両手を上にあげまるで誰かを追いかけるようなしぐさをしたり。
そして余命から3ヶ月半の1月の中旬、父は親族に見守られながら亡くなりました。

父が亡くなってからわかったことですが、父は生命保険なんて払ってなくバブル時代に親族に内緒で多額の借金をし、家も担保にお金を借りていたのをずっと死ぬまでひた隠ししていたようでどうやらその悩みに胃をやられたのではないかと。あとはやはり喫煙が父はヘビーなんてものではなくチェーンスモーカーだったから余計だったかもしれませんね。
タバコは本当にオススメしません。

うれしかったお見舞い品と理由

父が大好きだった甘いもの系。特におばが母親代わりだったのでそのおばが作るぼたもちを父は喜んで食べてました。

病院食のおかずとして用意してよかったもの

父は味が強いものが好きだったので魚の煮付けなど

暇つぶしとしてやっていたこととその感想

アルバムを見て思い出語り

今1番楽しみにしていること、生きていてよかったと思えるようなこと

父を見習って健康に気を使うようになりましたので早食いはせずゆっくりしっかりご飯を食べるようにしています。

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