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もうちょっと頑張ってと思う反面、もう休んでいいと思ったこと(胃がん・十二指腸がん)

プロフィール
お名前:はるる
出身地:東京都
現在の年齢:66歳
あなたと患者さんの関係:親子
患者さんが闘病された時期の年齢と、その時期のあなたの年齢:79歳
病名:胃がん発症から十二指腸がん併発

闘病記

父が最初に胃がんを発症したのは、まだ彼が現役で仕事をしていた65歳位のときでした。
告知するかどうかを医師に聞かれたのですが、母の意思で告知しないことに決まりました。実際胃潰瘍で手術という程度で、本人も納得したようでした。
もしくは納得したふりをしていたのかも知れません。
母と私としては、やはり死に至る病という感がありますので、とにかく当人の前ではいつもどおりと、それだけ約束しました。
でも正直なところ、そう言われても実感が無いというか、この時点でまだ我々もよくわかっていない、それだけ他人事であったのは事実です。
実際手術はそう時間もかからずに終わり、経過も良好でした。手術自体難しいものではなかったので、入院保険に健康保険でまかなえたということです。
加えて、まだ父が現役で収入があったことも大きかったですね。勤め人ではなくいわゆる自由業、画商のような仕事をしていたので、休みもそれなりに取れました。
この時期私は家を出ていたので、細かいお金のこととかは把握していませんでしたが、母の言によるとそれほど持ち出しもなくすんだそうです。
私以外に子供はなく、それがちょっと不安だった反面、扶養家族で学生とかがいなかったのは、ある意味幸いだったですね。

術後の経過は良好だったので、本人も疑っていたかも知れないのですが、それでも日々元気になれていったので段々と気にしなくもなっていったんです。
しかしよく言われる5年の観察期間が過ぎ、もう大丈夫なのではと思っていた時に、今度は十二指腸がんが発見されたのです。
再発や転移ではなく、新しく出来たがんだと医師は言っていました。
今回は一応仕事はしていたものの、半分引退状態でしたし収入の殆どは年金だけでした。
年齢も年齢だったので、手術するかどうか医師もこちらも悩んだのです。本人はというと、あくまでも潰瘍だと思おうとしていました。
信じ込もうとしていたのが、こちらにもわかりました。
それでも望みをかけて手術に踏み切ったのですが、医師の言によれば、開けてみてわかったのはすでに手遅れ、ということでした。
つまり、一応メスは入れたものの、何もせずに縫い合わせたということです。
もうこれでどうしようもないということで、脱力感はありました。10年近く前からある程度覚悟していたとは言え、やはり現実が目の前に突きつけられたのです。
なので後は、今で言う緩和ケアをするだけになりました。
一旦は退院した父でしたが、程なく再入院することになったのです。
今回も幸い、手術給付金と入院保険が何とか出てくれました。前回の手術から年数が経っていたので再び入れていたのです。
これが随分と役に立ってくれたのは、言うまでもありません。これのおかげで、療養生活にお金の問題なく過ごせたのです。

父は体の丈夫な人で、しかも自分の健康には元々留意する人でもありました。
この再発時点で、後数年と言われていたのですがそれも通り越し、あと半年と言われてもまた通り越し、最後には医師が余命宣告を諦めたほどです。
それだけ生命に対する力が、失われていなかったのですね。
実は私自身はこの時期、海外に出ていましたので、電話をかけることくらいしか出来ることはありませんでした。
ただ母の兄弟たちがまだ若く、かなり母の手伝いをしてくれたということです。申し訳ないながら、ありがたいことでした。
少なくともお金の心配なしに病院で緩和ケアできたのは幸いでした。

しかしいよいよ体力も限界に達し、年令的にもきつくなってきたので、できるだけ早く帰国をと言われました。
久々に見る父は、流石に衰えを隠せません。それでも娘に情けない姿は見せたくないのか、格好の良い父親で最後まで通そうとしていました。
付き添っていても、少し休憩してこいなどとこちらを気遣う姿は、父そのものでした。
またある日、廊下を付き添って歩いている時にふと、お前とこうして銀座でも歩きたかった、と言われたことがありました。
一瞬泣きそうになったんですが抑え、何言ってるの退院したらいくらでも付き合うと返しました。
もうこの時点では父も、無意識の中では全てわかっていたんでしょう。
後はお互い、別れを待つしか無いという状態でした。
そして最後は、静かなものだっったそうです。海外の用事を片付けるために一旦戻っていたのですが、帰国して空港で電話かけてみたら、危篤状態だと言われたのです。
慌てて駆けつけて、それでもまだ意識もあり今夜は越せそうだねということで、一旦帰宅したのです。
しかし帰宅後1時間くらいで、息を引き取ったと連絡が来ました。

正直うちの父の場合。入院した病院の医師もいい人というか、無理に生かそうとか管につないでも何とか、ということはしませんでした。
ただ苦しまないように苦痛を緩和、できるだけ長く自分の意志を持ったまま生命をつなぐ、そういったケアをしてくれたのです。
もちろんがんは今や死に至る病だとは限らなくなりました。うちの場合は結果、亡くなることになりましたが、快癒する人も多いのです。
でももうこれはと思った時に、最後まで自分の意志を保ったまま送ることも、必要ではないかと思うのです。
随分と長い闘病生活になった父です。最後の方では、もうそんなに頑張らなくても、と言った気持ちもこちらにありました。
それでも、治療にしても緩和ケアにしても、当人の意思を尊重してあげることをおすすめしたいです。
うちの場合は告知はしませんでしたが、手術などの決定は父が自分でしました。これが患者さんが一番、未練を残さずに済むことではないでしょうか。

うれしかったお見舞い品と、その理由

お見舞い品は実は、甘いものが助かったです。特に飴、混ぜ物のない本当の砂糖菓子がよかったです。
というのも、父はスモーカーだったので、入院を期に禁煙したのですが口寂しかったらしく、飴を喜んだからです。
他のお菓子と違って長時間口に入れていられるので、満足感も大きいようです。

病院食のおかずとして用意してよかったもの

どうしても薄味になるので、そして父は濃い味付けを好んだので、ありがちですが佃煮が喜ばれました。海苔の佃煮とかが、柔らかいこともあって常備になりました。

暇つぶしとしてやっていたことと、その感想

検査だなんだと忙しかったようで、特に暇つぶしは必要なかったようです。
ただ雑誌や新聞の差し入れは喜んでくれました。この2つは隅々まで読むと、良い時間つぶしになると言っていましたね。
また昔の人なのでデジタルのゲームよりも、トランプの一人遊びを良くしていたようです。

役にたった便利グッズと、その理由

何と言っても魔法瓶です。大きめの、何時でもお茶を入れられる魔法瓶と、携帯用の作り置きを入れておける魔法瓶ですね。
喉が渇くことが多いので、手元にすぐ飲めるものが欲しい、お水だけは物足りないということで携帯用の魔法瓶、来客のお茶用に大きめの魔法瓶です。
特に点滴に繋がれている時には、給湯室まで行くのが面倒だということで、この2つは重宝していたようです。
あとはベッドサイドにゴミ袋を下げておくなどに役立つ、S字フックです。これがあると特に手術後などに身動きできない時に、袋に入れた小間物を手元に置くことも出来ます。

今1番楽しみにしていること、生きていてよかったと思えるようなこと

亡くなってしまったので、もうこれは何とも言えないのですが、最初の手術が終わって退院したときのことです。
家から駅までは本当にゆるい坂になっていたのですが、流石に体力が落ちたのでしょう、この坂がきついと言っていたんです。
なのである日、普段は自転車で通勤していた私ですが、父と腕を組んで駅まで歩いたことがありました。
母とはよく腕を組んでいた父ですが、私と腕を組むのはめったに無いことなので、それもあってかとても嬉しそうだったのを覚えています。

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