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周りの大人に支えられて(ユーイング肉腫)

プロフィール
お名前:ひろ
出身地:東京都
現在の年齢:34歳
あなたと患者さんの関係:本人
闘病時の年齢:12歳
病名:ユーイング肉腫

闘病記

私がガンになったのは、中学1年生の時でした。中学にあがり、小柄な私は重い荷物をかついで毎日20分強の道を通いました。だんだん腰が痛くなり、6月ころから接骨院に通い、湿布を処方してもらっていました。7月上旬の朝、熱が出て、ベッドから立ち上がれなくなりました。父の肩につかまり、なんとか、かかりつけの内科に行きました。そこで「これは外科の痛みじゃないわよ。内科の痛みよ。」と言われ、近くの大学病院に搬送されました。大ごとだと思っていなかった私は、期末テストをサボれてラッキーと思っていましたが。しかし、首をコルセットで固定され、ベッドアップも制限され、「ここでは診察はできないから他県のがんセンターに転院になる」と言われ、初めて「すぐ治らないのかな?」と思った記憶があります。

私は3人姉妹の長女で、小学校5年生と1年生の妹がいました。両親が自営の工務店を営んでおり、祖母との同居に向けて、自宅兼工場を建て替えている時でした。年末の引っ越しに向けて、荷物を整理しようとしていた夏休み。自転車で5分の病院から、電車で1時間の病院に転院になりました。ベッドで寝たきりになった私のために、母は病院に泊まり込んでくれました。家業は秋に繁忙期を迎えるため、妹たちは同じ年ごろの子供がいる従兄弟の家で預かってもらうことになりました。
がんセンターに転院して、初めて、自分の病気を知りました。抗がん剤と放射線治療が必要で髪が抜けること、治療には1年くらいかかること、足がもう動かないこと。私の腫瘍は首の後ろにできていて、神経を圧迫しているために半身が麻痺して脊髄損傷のような状態になっており、手術はできない部位でした。

そんな私を支えてくれたのは、明るい母と、お姉さんみたいな看護師さんたち、同じ病棟の患者仲間のおじさん、おばさん、お姉さんと、話を聞きに来てくれたソーシャルワーカーさんでした。母は、いつも笑っていました。何を言うでもなく、ベッドサイドで本を読んでいました。私が話しかけると答えてくれる、頼むと用事をしてくれる。今思うと、家と同じ距離感でいたくれたことに救われていたと思います。20代の看護師さんが多く、病棟で1番幼かった私を、みんなが気にかけてくれていたのだと思います。仕事の合間に話しかけに来てくれたり、漫画やCDを貸してくれたりしていました。師長さんがイベントを企画してくれて、一緒に内容を考えさせてくれたり、ポスターを頼まれたり、なかなか忙しい入院生活だったと思います。また、同じ病棟には、いろいろなガン疾患の患者さんが入院していましたが、入退院を繰り返す患者が多い病棟だったので、おそらく、師長さんの働き掛けもあったのでしょうが、仲良くなっていきました。おばさんたちとおやつタイムしたり、もちこんだボードゲームで遊んでいて、看護師さんに「うるさい」と怒られるほどでした。その分、患者仲間の死は悲しかったし、あの人もこの人も自分も死ぬのかなと思うこともありました。ソーシャルワーカーさんは、主治医が紹介してくれましたが、このような仕事があることを初めて知りました。引っ越し前後の市区町村の制度を調べてくれて、手続きのお手伝いをしてくれました。今思えば、母の気持ちを聴いたり、相談に乗ってくれたりしていたのだと思います。

治療がすすむと、腫瘍が小さくなってきたのか、私の足がピクピク動くようになりました。成長期だったことが吉とでたようで、主治医以外の脳外科や整形外科の医師たちも驚いていました。早速リハビリが始まり、私の入院生活は更に忙しくなりました。
金銭的なことは子供だったのでわかりかねますが、ソーシャルワーカーさんのおかげでいろいろ助成を受けられました。小児難病の手続きをしてもらえたので医療費はかかりませんでしたし、身体障害者手帳も取得できたのでベッドや車いすも助成してもらえました。月々の手当ても受給でき、ありがたかったと思います。家の建て替えよりも先に病気になっていたら、建て替えも同居も消えていたかもしれません。
学校は、中学1年生の夏から2年生の夏まではほぼ行っていません。治療の合間の2週間程度の自宅療養中に、1時間か2時間か、車いすで母に連れて行ってもらいました。週に1回、病院に学習ボランティアのお姉さんが来てくれていましたが、お喋りに夢中でほぼ勉強はしていなかったと思います。退院後も、私が通っていた公立の中学校には車いす用のトイレがなかったので、相変わらず毎日2時間くらい出席するのが限界でした。担任の先生方の働き掛けで、次の年には1階に車いすトイレをつくってくれました。車いすから、松葉杖、T字杖とだんだん動きやすくなり、修学旅行は一緒に行きました。英語と数学だけは遅れを埋められず、家庭教師を1年半つけてもらいましたが、他の科目はなんとか自力でやり、高校受験も乗り切りました。
今は通院はしておらず、夫の転勤で転居するまでソーシャルワーカーとして働いていました。患者仲間は亡くなった方もいますが、今でも年賀状のやり取りをしています。

お医者さんはスーパーマンではないけれど、人生何がおこるかわからないと思います。いいことも、悪いことも、タイミング次第。今しかできないことが必ずあると思うので、その時にできることを一生懸命やったほうがいいと思います。

うれしかったお見舞い品と、その理由

クラスメイトからの手紙です。中学生だったので、普通のテンションの手紙をもらいました。返事を書くことが楽しかったです。母が毎週金曜日に買ってきてくれた天丼もおいしかったです。

病院食のおかずとして用意してよかったもの

ふりかけ。

暇つぶしとしてやっていたことと、その感想

漫画を読んだり、手紙を書いたり。折り紙を折ると、病棟に飾ってくれたので、隣の保育士志望のお姉さんと競って折っていました。

役にたった便利グッズと、その理由

S字フック。ベッドから動けなかったので、ベッド柵にいろいろなものをぶら下げていました。

今1番楽しみにしていること、生きていてよかったと思えるようなこと

病気になって、ソーシャルワーカーという仕事を知って、ソーシャルワーカーを目指しました。まだがん患者に関われたことはありませんが、いつか関わりたいと思っています。
ここ数年、ランニングにはまっています。今の目標はフルマラソン完走です。患者仲間も、主治医や看護師さんたちも、そして両親も、私が走ることにとても驚いていました。が、応援してくれているので、病院のある地域のマラソンに参加して完走できるようがんばろうと思っています。

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